このこのまごまで つみきのそのさん
そのさんはこんなひと
「 このこのまごまで つみきのそのさん 」 この なが~い なまえについて
少年時代~学生時代
小学一年生の担任だった 塗矢くにお先生 が大好きで、この頃のたのしい思い出が、以降の こども好きの性格 を形成していったのではないかと自己分析しています。 大好きなサカナ釣りが嵩じて 東京水産大学 に補欠の補欠(!)で滑り込みました。
( けっこう運が強いかも? )
少年時代~学生時代
フツ~のサラリ~マン時代
フツ~のサラリ~マン時代
静岡県の物流会社に就職し、フツ~のサラリ~マンがフツ~だと信じていました。 漠然とした 独立願望 があり、当時、まだ珍しい フルマラソン を完走して余分なエネルギーを昇華していました。 保育士になりたくて通信教育で独学・受験するも、あと一歩で劇的に不合格! 神様のいたずらに天を仰ぎます。
木工職人時代
36歳の時、人生の後半戦を強く意識してサラリ~マンを退職。 岐阜県の高等技能専門校の木工工芸科にて学び木工職人に。 主に つみき と とびばこ を作っていましたが、作業中、左手の2本の指先を落とす大ケガをして職人を断念。 人生最大の悲劇!のはずが、なぜか 「 これがいい方向に向かう! 」 と予感。
木工職人時代
浜松こども館時代
浜松こども館時代
指のケガの後、不思議なご縁で浜松こども館に転職し、こども好きの性格が、ここで一気に 開花 した気がします。 3時33分から開始するドッジボール 「 ドッジ333 」 や、ボールプールの清掃を職員の 仕事 からこどもと一緒にやる あそび に変更する等、のんびり楽しく過ごした2年間でした。
童具館時代
童具館の和久洋三館長との不思議なご縁で 静岡工房 の設立に参画。 工房の経理、つみきや収納箱の製作を担当。 最後の半年間は東京の本館に勤務、SHOP店員ながらつみきを売らずにこどもたちと遊んでばかりいました(笑) 和久洋三のわくわく創造アトリエ 「 認定指導員 」 を取得。
童具館時代
このこのまごまで
つみきのそのさん 時代
このこのまごまでつみきのそのさん時代
やりたいことをやるんだっ!
静岡県に戻り、2013年の春に童具館のつみき「 童具 」 を使ってつみきの販売とつみきあそびの 「 出前 」 をするお店 「 このこのまごまで つみきのそのさん 」 を創業。 つみきあそびの対象を、こどもたちはもちろん、「 0歳から100歳まで 」 に広げることを夢見て日々活動中~♬
「 このこのまごまで つみきのそのさん 」 このなが~いなまえについて
つみきを売ったり、つみきで遊んだりするのだから つみきのそのさん でいいんじゃないの? すんなり即決するところでした。 でも、やっぱり、なんだか、もうひとひねりしたいな! と、心の中の もうひとりの私 がうっすら感じていました。
今はもう高校生の娘が、生まれた頃の我が家の話です。 部屋の中には、ピカピカ光ったりピコピコ鳴ったりする、プラスチック製のおもちゃが散乱していました。
ピカピカ! ピコピコ! それはそれで楽しいのですが、決してそれ以上に 発展 することのないこれらのおもちゃたちは、驚くほど短期間で娘に飽きられてしまい、次から次へと、どんどん押入れの奥にしまわれていきました。
これでいいのか? これでいいのか?
ずっとずっと、愛情をもって使うことのできるおもちゃが欲しい。 生まれた娘が、成人して、結婚して、こどもを産んで、その子 ( 私の孫ですね ) の時代にも遊べるおもちゃが欲しい。 いや、まだまだ。 またその子が成人して、結婚して、その子のこども
( 私のひ孫 = 娘の孫ですね ) ができて・・・
娘の孫まで、そう、 このこのまごまで 遊べるおもちゃが欲しい。 半世紀の時を経ても、たとえ自分が この世 から いなくなっても、ずっとずっと遊べるおもちゃが欲しい。
プラスチック より 木製玩具 がやっぱりいいな。 それも、遊び方が遊び手によって多様に変化できる つみき がいいな。
そして自分は つみきあそびの楽しさ を、多くの人に知ってもらうことを ライフワーク にしたい、いや、するんだ!
こうして、単純に2つの名前を合体させ(笑)、 このこのまごまで つみきのそのさん は誕生しました。
お店の名前をすべて ひらがな にしたのは、未就学のこどもたちにも読んでもらえるように、と考えてのことです。
このこのまごまで つみきのそのさん
お店の名前もその解説も、ながくてながくてスミマセン。 なが~い = 名がいい ということで(笑)